MORYO通信 ~Urbs Communication~

本を読んで勝手にいろいろ言います

悪夢組とシュルレアリスム 『ぬかるんでから 著 佐藤哲也』

ルネ・マグリットという画家をご存じだろうか。

彼はシュルレアリストの画家として20世紀前半に活躍し、多数の名画を世に遺した。名前は知らずとも、『ピレネーの城』や『ゴルコンダ』『恋人たち』などの絵画を見たことがある人も多いのではと思う。

 

どうだろう。これらの絵画を観ると、どこか不安な気分に襲われはしないだろうか。しかし、これらの絵画のどこに怖い要素があるのかと問われても、それがよくわからない。「なんとなく不安な感じがする」といった風に、明確な答えを出せない方が多いはずだ。

 

そもそもシュルレアリスムとは「超現実主義」と訳される。かいつまんで言ってしまえば、「理性による監視を排除した、真の思考の動きの表現」を追求する思想活動のことだ。

つまり、この思想活動の中で生み出された絵画は、作者たちの無意識下における思考の動きの表象であり、鑑賞者を怖がらせようという意図は一切無いものなのだ。

 

では、なぜこれらの絵画に不安感を覚えるのか。

 

時に、これらの絵画は悪夢の世界のようであると評されることが多々ある。

それはその通りで、「夢」とはシュルレアリスムの表象として最も完成されたものであると言っても過言ではない。理性を排除した、真の思考の動き。まさしく夢のことではあるまいか。現に、E.H.ゴンブリッチは自著『美術の物語』中でマグリットを評する際、

彼は、自分のやっていることが現実を写すことではなく、夢のなかでのように新しい現実を作り出すことであるのに気づいている。

と書いている。ほかにも、同じくシュルレアリストとして有名なサルバドール・ダリなどは意識的に夢の世界を絵画として表そうとしていたとされる。

 

もちろん現実性の強い夢を見ることもあるとは思うけれども、基本的に夢の世界では意味が全くわからないような混沌としたイメージが出てくることが非常に多い。これはいわゆる悪夢と呼ばれることが多いわけだが、この混沌とした世界こそが人間の純粋な真の思考であるとシュルレアリストは考え、それを絵画として表現しているのだ。

 

つまり、なぜ鑑賞者がマグリットの絵画に不安感を覚えるのかといえば、それがいわゆる悪夢の世界を描き表したものだからなのである。

マグリットの絵画は人間の真の思考の動き、つまり混沌とした夢イコール悪夢を表したものである。そして悪夢とは恐ろしく感じるものである。よって、鑑賞者はマグリットの絵画に恐怖や不安を覚えるのだ。

 

しかし、こうなると新たな疑問が湧いてくる。

なぜ、我々はその真の思考の動きを悪夢だと思い込み、不安や恐怖を覚えるのか?

 

ここからは推論である。

もしかしたら、真の思考の動きを自覚すること、それこそがシュルレアリスム、そして悪夢に対する不安感の正体なのではあるまいか。真の思想の動きに身を委ねてしまうということは、イコール理性からの解放、つまり人格の破綻につながる。我々が恐れているのは、夢の世界にのめり込むあまり、自らの思考の動きを制することのできる自我を失うことなのかもしれない……。

 

とはいえ、マグリットの少し後の世代の画家たちのようにアヘン等の薬物さえ使わなければ(マグリット自身は薬物の使用をしていなかったが)、そうそう理性が排除されることなどあるまい。なにより、不安や恐怖を覚えるにも関わらず長年彼の作品は評価され続けているし、彼の絵によって理性が崩壊した人はおそらくいないか、限りなく少ないはずだ。

だから、我々は安心して彼らの供してくれるシュルレアリスム芸術の甘美な不安感に陶酔させてもらおうではないか。マグリットにこだわらず、シュレアリストの回顧展が開かれた際はぜひとも足を運んでみてほしい。自らの真の思考の動きに、少し近づくことができるかもしれない。

 

 

さて、このようにシュルレアリスムについて語ってきたが、Vtuberの中にもマグリットのように夢の世界を表現しようと試みている者たちがいる。

ジョー・力一氏、でびでび・でびる氏、雨森小夜氏によるユニット「悪夢組」だ。全員がにじさんじに所属するライバーであり、過去「悪夢」というタイトルで2本の動画をアップしている。


悪夢 ※閲覧注意


悪夢 2

これらは直接的なビックリ表現を使わず、漠然とした不安や恐怖を煽る、まさに悪夢の世界を表した動画となっている。

特に『悪夢』における教室のシーン、『悪夢2』中における力一氏の語りのシーンはシュルレアリスム文学に通じる部分がある。当初のシュルレアリスムはむしろ絵画よりも文芸で発展しており、こちらではマルキ・ド・サドなどが著名であろう。

めちゃくちゃな単語の羅列による会話文というのは、理性の崩壊した世界を表すうえではよくつかわれる手法の一つだ。以前力一氏と筒井康隆著『パプリカ』についての記事を書いたが、アニメ映画版『パプリカ』でもこの手法を用いて理性の排除された夢の世界が表現されている。

 

そして、そのような理性から解放された世界を書いた作品として、佐藤哲也著『ぬかるんでから』を紹介したい。

こちらは短編集なのだが、どれも世界のどこかが壊れているのだ。前述の『パプリカ』や力一氏の語りのように、めちゃくちゃな単語の羅列が出てくるというわけではないのだが、当たり前のように世界の常識が破壊されている。

 

特に主人公が次々と不測の事態に見舞われる『とかげまいり』は読んでいて頭がおかしくなりそうだった。主人公は壊れた世界で壊れた日常を送っているのだが、そこで起きる壊れた事態に壊れた思考を巡らせる。

どのシーンを切り取っても、理解ができない。そして、どのシーンに「なぜ?」と問いかけても、明確な返答を得ることができないような感じがある。まさしく、悪夢である。

 

めちゃくちゃな事実や思想の羅列。少し手法は違うが、「悪夢組」の動画、『パプリカ』における悪夢表現に近しいものが感じられる。

そんな『ぬかるんでから』、悪夢組や『パプリカ』の悪夢表現が好きな方々にはぜひ手に取っていただきたい一冊だ。

 

 

最後に、「悪夢組」である力一氏とでびる氏は『うんち』という配信を行っているので併せて紹介させていただく。


うんち

こちらは1時間半にわたりうんちについて議論するという配信で、なかなかに常識が通用しないような感じがある。これもまた悪夢と言えるのではないだろうか。

 

とにもかくにも、現在「悪夢組」の動画は長らく発表されていないのが少し残念なところだ。再び上記のような配信、動画が制作されることに、個人的に期待したい。

力一氏、でびる氏は共に現在3D化されている。いつか小夜氏が3D化した暁には、3Dとなった彼らによる上質な悪夢、シュルレアリスム芸術が見られることを楽しみにしている。

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